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街の珈琲屋さん通信 №58


ラジル・セラード珈琲との出会い上原勇作社長を偲んで
 昨年12月29日夜、ブラジル・セラード地区のコーヒーを日本に広め、同地区のあるミナス・ジェライス州のコーヒーの品質向上に貢献された上原勇作氏が亡くなられた。
 
 上原氏との出会いは、1990年・大阪花の万博に、トーホーコーヒーが出店(サンパウロ館)した時に、ブラジル政府から、せっかく日本で開催されるので、是非日本人が創ったコーヒーを使ってくれと依頼を受け、上原勇作氏とムンドノーボ農園を経営されていた、山口節男氏を紹介されました。
 このセラードコーヒーは、大阪・花の万博で大人気、わざわざセラードコーヒーを飲むために何度もサンパウロ館に足を運んでくれた人がたくさんいました。
 「未だ知られざる、閉ざされた大地」と言う意味の「セラード地区」
  20世紀末まで人の手が着けられないまま眠っていたセラード地区に、今から約30年前の1970年代半ば、日本政府と民間による積極的な働きかけと協力により、大規模な農業開発がスタートした。
 上原氏もこのプロジェクトに、ニッポパラカツ農業開発株式会社として参加、「セラードコーヒー」の生みの親である、ムンドノーボ農園の山口節夫氏と、このプロジェクトの指導的立場にありました
 道も電気も井戸もないセラード地区で、彼らのコーヒー作りは、まず土壌を改良し、有機肥料などで地力を与え、灌漑用のパイプを巡らせて、コーヒー栽培のための条件を整えることから始まり、現在では、ブラジルコーヒーの生産量の約半分を占めるくらいに成長しました。このことが、日系人のことを「土の魔術師」と呼ばれる所以である。
 それまでの「ブラジルらしさ」を根本から覆したセラードコーヒーは、「ブラジルには酸味はいらない」などの昔からの「ブラジルらしさ」にこだわるコーヒー業界に携わる人たちに一矢を投げかけたのです。
 その後、1990年の秋には、山口氏の息子、カルロス・彰男とともに来店され、現在の当店の「ムンド・ノーボ」の始まりの「完熟・手摘み」のコーヒーを持ってこられた。
 そのコーヒーは、山口節夫氏が上原氏の要請で日本人に喜んでもらうために、5年がかりで創られた「ブラジルらしさ」を覆すとても美味しい酸味をもったコーヒーでした。
 この、セラードコーヒーの普及には20年近くかかりましたが、2005年2月、INPI(ブラジル国家工業所有権院)の決定により、セラードとして認定されるエリアで生産されるコーヒー豆に「セラード」の産地名表示の権利が、ブラジルで初めて正式に与えられました。
 これは、上原氏と山口氏がやってきたことがブラジル国内はもとより、国際的に認められた高品質のコーヒー豆として、世界のコーヒー市場で他のブラジルコーヒーとは別格扱いをされる位置づけにあることを証明したことになります。
 2003年には、生産者の栽培意欲の促進と味の進歩を目標に「第1回コーヒーコンテスト」が開かれました。
 このコンテストには、上原社長の招聘で私も参加しましたが、ブラジル・日本・アメリカ・コスタリカなど各地からの審査員が参加、本当に美味しいコーヒーを選びました。
 2006年は、10月にこの「第4回コーヒーコンテスト」が実施されました。
 当店からは、息子の英男がカルロス・彰男の指導の下、審査に参加しました。
 この、上原氏と山口氏の遺志を受け継いだコーヒーは、これからも日本人の舌をうならせるでしょう。
 また、私たち「上原チルドレン」が彼の夢と挑戦を引き継いでいきます。
 これからの、「美味しいコーヒー」のために・・・
2006年カセール・コーヒーコンテスト1位 「ミス・ブラジル」 2月下旬入荷予定!
 今年、370品の中から1位を獲得したのは、コロマンデール(Coromandel)市のカルロス・ピッシン氏(Carlos Piccin)が経営するエストレイラⅡ農園(Faz.Estrela Ⅱ)です。
 ブルボン・アマレロのピーベリー(丸豆)で、非常に貴重なコーヒーです。
 お楽しみに!!


| 街の珈琲屋さん通信 | 19:52 | comments(0) |
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